このコンテンツは我が慶應医学部・看護短大弓道部の部誌「DerBogen」の第18号に掲載されていたものに、若干の加筆をさせていただいたものです。
もとをただせば、豪射列伝は内田先生(73)が書かれたもので1990年に最終版ができたと思われます。月日の経過とともに変わった部分もあるために、これに少し手を加えさせていただきました。また豪射列伝続編は71期井上先生以降の先生方のものです。
本コンテンツの注目度に配慮した上で、運用にあたり、次のように基準を改めました。
豪射列伝掲載基準 (2019/4〜) 必須条件
選択条件(以下2つのうちから1つ以上を満たす事)
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加藤 淳 (80) 妥協することを知らなかった早咲きの名選手
岩崎 栄典 (80) 常に上を目指して努力し続けた体育会級の射手
御園生 与志 (83) 慶応医学部弓道部史上最も袴の似合う男
大澤 一郎 (91) 武の道に生きた男
津崎 盾哉 (93) 百射皆中の鬼才
阿部 雄志 (98) 一騎当千の怪物 慶應弓術の生んだ豪傑
人見 諒 (99) 「道場なき」時代を黄金時代へ導いた全国最強の主将
荒井 将季(100) 初志貫徹の俊英 初心者から「名射手」に成った男
齋藤 響 (101) 国士無双の御前
藤阪 和 (101) 天衣無縫の女傑
真の実力者で、部内試合でも対外試合でもその才能を遺憾なく発揮した。またレギュラーとしては、どのポジションにおいても見事な的中を飾った。部内試合では田村杯を制すること20回(入賞は27回)。百射会も2度制しており、第1回の百射会の優勝者でもある。対外試合の成績も抜群で年間6試合程度の当時、少なくとも19試合に参加しており、その的中率は7割3分9厘である。14中を下回ったのはわずかに3試合だけであった。学一学二では大前を勤めた(9試合で7割5分)。他にも二的、四的、落とどこでも当てられる人だった。
試合成績:的中率 0.739
(19中1回、18中1回、16中7回、15中1回、14中6回 現在で木盃16個)
タイトル:田村杯7連覇、田村杯優勝20回、田村杯入賞27回
神定 守(56) 第二期黄金時代の立役者目黒(47)中村(49)に続いて慶應が生んだ3人目の名大前。2年間で15試合の大前を勤め、実に7割4分の高的中率をマーク。他の追随を許していない。また、57期の大島、佐藤、篠原、羽金の黄金カルテットを率いて、二年連続全医体優勝を遂げた。個人的にも、田村杯優勝9回、百射会優勝2回、入賞7回とめざましく、唯一の二百射会と第1回大鳥杯における優勝者でもある。OBとして参加した百射会でも入賞するなどのエピソードは多い。
試合成績:29試合で的中率 0.660
(17中4回、16中2回、15中7回、14中2回 現在で木盃15個)
大島久二(57) 中堅のポイントゲッター同期の中では最も多くの試合に出場し、中盤に位置して確実に的中させていた。勝負のキーを握っていた男である。三的、四的で15試合に出場し6割7分3厘をあげている。第二期の黄金時代の中堅を死守していた男である。また、フル出場した試合が30試合で、これは部内でトップレコードとなっている。常に静かに弯いては、着実に当ててくれていた、そんな頼れる男であったと思う。
試合成績:30試合で的中率 0.610(16中2回、15中3回、14中4回)
タイトル:百射会優勝(88中)、田村杯優勝6回
佐藤通洋(57) 伝説の二的レギュラー登録22試合のうち、二的を勤めること18回。成績は6割5分3厘と、第3期の黄金時代の二的を期待に応えて完璧に守り通した男。大前・神定と組んだこのコンビは、後ろを見事に引っ張り、他校にも広く名の通った存在となった。大会でも臆さず、堅実に当てていくその技の切れ味は天下一品で、まさに「伝説の二的」。おそらく後にも先にも彼以上の二的は存在し得ないであろう。
試合成績:的中率 0.658
タイトル:百射会優勝2回、入賞3回
篠原 保(57) 頼れる落前、「試合で皆」に最も近かった男職人的にポジションをこなし、大前5試合、三的6試合、落前9試合を経験している。どのポジションにおいても主将の期待に添って当て続けたが、特筆すべきは落前での活躍である。実に7割7分7厘の驚異的な的中を残している。レギュラー登録21試合のうち、7割を切ったのはわずかに6回のみ。試合での皆中もきわめて現実的で、他校には脅威と畏怖の念を与え続けていたが、残念ながら達成の前に引退となった。
試合成績:的中率 0.718
(19中2回、18中2回、17中1回、15中3回、14中7回 現在で木盃15個)
タイトル:田村杯優勝5回、百射会優勝1回、入賞5回
羽金和彦(57) 全日本一の弓弯き57期の黄金カルテットにおいて、主に三的を引いていたが、その安定感には定評があった。三的における的中率は6割9分4厘。彼を含めた57期はその才能もさることながら、神定主将の薫陶を受け、さらにその技に磨きをかけていった。二的佐藤、三的羽金、落前篠原、落大島の4人は同学年が輩出するレギュラーとしては空前絶後のものであった。その中にあって羽金は、全日本で個人優勝も果たしており、全日本1位の弓弯きとなった。
試合成績:的中率 0.669(16中2回、15中2回、14中3回)
タイトル:田村杯優勝6回、百射会優勝1回、入賞3回
田中伸宜(61) 百射会7連覇の天才男レギュラーは四的・大前・落と無難にこなした。起伏が激しく高的中もあれば、ポカもやる極めて人間的なレギュラーだった。しかし部内では他の追随を許さず、田村杯、百射会では、驚異的な成績を収めている。当時年2回の百射会で、予科2以来学4前期まで7連覇を果たして率8割1分6厘を残している。予科2から出場した百射会全てに入賞し、率7割8分であった。
試合成績:的中率 0.569
タイトル:田村杯優勝7回、百射会優勝7連覇、入賞9回
中村明義(68) 遅咲きの天才、慶應四人目の関東一の男学2の頃から徐々に頭角を現しはじめ、主将就任からは押しも押されぬ偉大なプレイヤーとして、現黄金期の地盤を松林元主将らとともに築きあげた。黄金期の中核ともいえる上村、井上、志津木他多くのメンバーに少なからぬ影響を与えた。学4での通常練習成績は8割を越える偉業を成し遂げた。主将時の人選や、采配には天才的な手腕を遺憾なく発揮し、細部にまで目を配るリーダーシップは見事であった。
試合成績:的中率 0.561
試合個人優勝10回、入賞25回
タイトル:田村杯優勝3回、入賞10回、百射会優勝3回(最高中91中)、入賞7回
注) これ以降、木盃制度が作られた。木盃とは漆塗りのサカズキであり、当初は前四矢会会長の前田先生より試合での成績優秀者に贈られていたもので、現在はOB会よりのご好意と現四矢会会長渡辺先生より2月の卒業生送別会に優秀者に贈られる。木盃は3種類あって、大木盃、中木盃、小木盃に分かれる。試合で19中以上(19,20)ならば大木盃、17中以上(17,18)なら中木盃、14中以上(14,15,16)なら小木盃となる。試合ごとに贈られるため、なかには17個持っているものもいる。
上村隆一郎(70) 最も人間くさい神様何事もないようにグランドスラムをやってのけた天才リーダー。最も神に愛され、最も人間味あふれる神様。我々には偉大すぎた中村A元主将をも越えた点があった。試合に対して臆さず、練習通りの結果を大舞台でも出し続けたことである。連続8試合の木盃獲得は、抜けない記録。そんな彼もやはり遅咲き、地道な正道の練習が実を結んだ。主将就任で神は彼を変えた。就任後19中2回、18中2回、17中16中15中各一回。全日本2位、東日本2位、関東1位、2位。弓に邪道は通じないことを証明し引退。そして学4の夏かつての王者は再び輝いて見せた。
試合成績:的中率 0.609
(木盃獲得8個 19中2回、18中3回、17中16中15中各一回)
試合個人優勝13回、入賞30回
タイトル:第55回関東個人準優勝、第32回東医体個人準優勝、
第56回関東個人優勝、第23回全医体個人準優勝・射技優秀賞、
第33回東医体個人優勝・最高学年賞、
田村杯優勝8回、入賞9回、百射会優勝3回、入賞6回
井上 卓(71) 慶應の大前に井上あり名門慶応の大前を勤めること12回。成績6割7部9厘。神定に続く慶応4人目の強力大前。故障を抱えても気力の充実で的を射抜いてきた。試合の緊張で自分のテンションを高めていった。ここ一番の大切な一射は、確実に当て、主将時の落も似合っていた。責任感が強く寡黙で、試合采配はいうに及ばず、射手として、学生として最も大切な何かを常に部員に求めていた礼節正しい雄将。前年の華々しい戦績を引き続き、再び始まった常勝慶応の伝統を死守することに自己をかけて戦ってきた。息の合う相棒、阪埜とともに常に地道な練習を続け、最後の秋関東で有終の美を飾り、慶応の不敗記録を延ばし引退した。
試合成績:的中率 0.650(木盃獲得13個 16中7回、15中2回、14中4回)
タイトル:第24回全医体個人MVP 第57回関東個人優勝、
第34回東医体個人4位、第25回全医体個人4位・射技優秀賞、
田村杯優勝2回、入賞9回、百射会優勝2回、入賞6回
阪埜 浩司(71) 歴代最幸の副将早咲きでしかも華麗に駆け抜けていった「一瞬の美」のプレイヤー。近年最高に人徳深い予科主任として、予科全員の心をとらえて放さなかった名将。楽しいクラブを築き上げた功績は筆舌に尽くしがたいものがある。そして2年眠っていた獅子は完全燃焼の副将として甦った。前年の華々しい戦績を引き継ぎ、維持するためには何でもした副将。ときには戦力として、ときにはレギュラーの良きアドバイザーとして。この動かぬ副将が応援席にいると、不思議と勝てる気がしたという。心の底から湧きあがるその応援は大きな力となって、レギュラーの弓を通して、グランドスラムとして彼自身へと返っていった。そして史上最強のパートナー井上、史上最強の学1、史上最強の予科陣に守られて、陰に徹した副将はクラブを去っていった。とてつもなく大きなお土産を残して。
関東大会6連覇、東医体全医体3連覇に全て出場したすごい射手。華々しい戦績ばかりが目に付くが、慶応が挑戦者であった頃を体験している苦労人。新人戦に負け、関東で足を引っ張ったこともある。そんな苦労が彼に流麗で冴えのある射を与え、彼を四大大会制覇の立役者としたのである。
主将時には、レギュラーだけでなく部員全員が楽しく弓を引き、且つ上手な弓引きになれるように指導の充実を図るなど部の改善に努めた。試合においては落でほぼ7割を超える高的中で立を支え、井上前主将から引き継いだ常勝慶応の不敗記録を更に延ばした。
試合成績:32試合で的中率 0.612
(木盃獲得14個 16中3回、15中3回、14中8回)
タイトル:第57回関東個人5位、第59回関東個人3位、第60回関東個人5位
田村杯優勝5回(入賞12回)、百射会優勝1回(入賞6回)
竹下 啓(72) 歴史に残る完璧なるマネージャー全医体を取りしきり、2年の間部活のマネージメントをこなした実直なる主務。厳しく誠実な弓への取り組みを評価され、学2にしてついに東医体デビューを果たした。初出場ながら、激しく競り合う信州大学を大とめでとらえ、東医体2連覇を飾る立役者となった。同年の全医体では14連中の末に個人3位を獲得。その後も主務を完璧にこなしながらの猛練習でレギュラーとして多くの試合に出場、慶應医学部黄金期を表、裏両方から支えた。個人タイトルとして東医体個人準優勝も忘れられない。
試合成績:16試合(320射188中)で0.588
(木盃4個 16中1回、15中2回、14中1回)
タイトル:第24回全医体個人3位、第59回関東個人5位
田村杯入賞6回、百射会入賞2回
内田 浩(73) 史上最幸の予科主任〜伝説を作った天才大前を引くことに特に強い信念を持っていた射手。大前として出場した8度の大会のうち7度団体優勝を成し遂げ、切り込み隊長の責を十分に果たした。団体優勝競射においては対戦校の大前の間合いの間隙をつき速攻で慶応の初矢を的中させ、慶応の勝利を確実なものとした。
通常練習における的中は驚異的で皆中は45回以上、百射会においてもその実力を遺憾無く発揮した。情熱も人一倍で、全医体3連覇にちなんで道着に3つの星の刺繍をしていたという逸話が残っている。その熱き闘志は語り継がれ、現在の弓道部の源となっている。
また、文才を生かした「悪魔の弓道用語辞典」「豪射列伝」などの名著がある。
試合成績:31試合で的中率 0.588
(木盃獲得7個 17中2回、15中2回、14中3回)
タイトル:第33回東医体個人3位兼射技優秀賞、第25回全医体個人準優勝、
田村杯優勝4回(入賞12回)、百射会優勝7回(入賞15回)
注) 彼は予科戦新人戦の2試合に勝ちを収め、予科主としての責をまっとうしたことで、自分を誉えた言葉が「史上最幸の予科主」であった。
野田航介(74) 心技体充実した最高の射手予科1の三医大戦デビュー以来、部内最多を誇るレギュラー登録34試合。驚異的にも羽分をきった試合はわずか2試合。個人賞を総なめし、木盃獲得15回(部内最多)。その戦績だけで素晴らしい射手であったことは想像に難くないが、彼の武功を詳しく見るともっと驚かされる。連覇時代の大会における団体優勝競射は3回あったのだが、優勝の懸かった5本の矢を全て的に沈めたのは彼だけであった。所謂「大事な矢」を抜かない。それゆえ、勝負矢を放つことの多い落前を任されていた。一本差に迫り、彼の矢が同中に持ち込み、落に最後の勝負が任せられる。まさに慶応の落前に野田あり。
人柄と射技、感動的な名勝負。彼は医学部弓道部界で最高の射手だろう。
試合成績:34試合で的中率 0.662
(木盃獲得15個 18中1回、17中3回、16中3回、15中5回、14中3回)
タイトル:第57回関東個人新人賞、第25回全医体個人7位、
第60回関東個人3位、第61回関東個人準優勝
第26回全医体個人7位兼射技優秀賞、第62回関東個人優勝
第36回東医体最高学年賞兼射技優秀賞
田村杯優勝6回(入賞12回)、百射会入賞3回
大木寛生(76) 運命に立ち向かった男彼の弓道人生は順風ではなかった。目の前で弓道部が天国から地獄に落ち、地獄から再び這い上がろうともがく時期の真っ只中にいたのだ。彼自身、10年ぶりに予科戦・新人戦の2試合を負けた学年で「予科2の2試合を負けた学年は学3になっても同じ過ちを繰り返す」というジンクスを背負っていた。しかし彼は真っ向から立ち向かっていった。情熱的な心、強いリーダーシップ、自らが手本となる射技。主将になり伊藤(77)川澄(78)という強力な選手を率いて春に関東優勝杯を奪還。最難関の夏には4年ぶりとなった東医体優勝を成し遂げ、秋の関東は余裕の勝利。まさに運命という魔物に打ち勝った激しい弓道部人生であった。
試合成績:25試合で的中率 0.553(木盃獲得6個 19中1回、14中5回)
タイトル:第65回関東個人優勝、全医体射技優秀賞、
田村杯優勝1回(入賞5回)、百射会優勝3回(入賞3回)
伊藤誠基(77) 歴史上最も練習し、慶應を変えた男‘95年には15000本、‘96年には17000本もの矢数をかけ、練習の鬼と化し慶応の練習形態を変えた男。しかし忘れてならないのはただ漠然と矢数をかけていたのではなく、常に自分の射技を計画的に修復し、試合まで日にち単位での調整を怠らなかったことである。彼にとって立練習とは単なる選考会ではなく、「抜く原因そして中てるための武器」を再確認する場であった。
絶え間ない努力と多分医学生では感じ難いであろう弓との親密な時間を経て、通常の練習では8割を超える的中を出し続け、試合では予科戦個人優勝、全医体個人優勝さらに多くの大会団体優勝に貢献することとなった。その原点は熱い先輩方との出会いであり、また若い頃の敗北から得た多くの経験に由来しているのだろう。
試合成績:26試合で的中率 0.566
(木盃獲得6個 17中2回、16中1回、15中2回、14中1回)
タイトル:予科戦個人優勝、全医体個人優勝、
田村杯優勝4回(入賞9回)、百射会入賞4回
川澄正興(78) 猛々しき慶応の、冷静なる智将慶応の大前をつとめること15回。内田に続く慶応6人目の強力大前。彼の長い会から放たれた矢が的を射抜く音は、慶応優勝の第一歩を刻んできた。
主将時には落でも活躍。秋関東優勝・春関東優勝と着実に功績をあげた。部内では「活力のある弓道部へ」を目標にして様々な改善に力を尽くし、射技の向上だけでなく、まとまりがあり常に前向きに進む弓道部を作り上げた。大会前には四字熟語の格言にちなんだ目標で活力をつけてきた。そんな彼が東医体に向けて掲げた言葉は「捲土重来」。その言葉通り勢いを盛り返した慶応は東北大学から優勝杯を奪還してきたのであった。惜しむらくは全日本制覇できなかったことか。東医体・全医体2試合ともに団体競射!という落にとって最も重圧のかかる場面。彼は勝利のかかった4射すべてを的に叩き込んだことを付け加えておく。
試合成績:33試合で的中率 0.610
(木盃獲得12個 18中1回、17中1回、16中2回、15中2回、14中6回)
タイトル:第67回関東個人3位、第69回関東個人優勝、第40回東医体個人4位、
田村杯優勝4回(入賞11回)、百射会優勝3回(入賞6回)
付録として
秋季関東大会 乾坤一擲 一本一本が大切である。
春季関東大会 一簣之功 5連覇達成のための最後の総仕上げ。
東医体 捲土重来 昨年の雪辱を今年こそは。
全医体 緊褌一番 気を引き締めてこの大舞台に立ち向かおう。
原 玲 (78) 度胸と愛嬌であて続けた女性射手予科1にして東医体女子3位そして新人賞、予科時代からの大活躍と、天性の才能を持っていたことがうかがえる。もみじ会では個人優勝3回・準優勝1回といつも好成績をおさめていた。田村杯における女子優勝は原のためにあるようなものであった。団体戦では2的に相性がよく、強力な大前とともに中てつづけた。
ただ練習にはムラもあり、もっと大会に出場してよかったのではないかと思われる。それでも春シーズンには、毎年心憎いほど絶妙に調子を整えてきた。現役最後の学3では、苦手の夏も克服し、引退試合の全医体で木盃をとり、引退の花道を飾った。
試合成績:23試合で的中率 0.582(木盃獲得7個 15中4回、14中3回)
タイトル:第35回東医体個人3位・女子新人賞、第69回関東個人3位
田村杯優勝5回(入賞11回)、百射会優勝1回(入賞1回)
加藤 淳 (80) 妥協することを知らなかった早咲きの名選手彼は大学から弓道を始めたにもかかわらず、2年の春には既にレギュラーに入ってしまった逸材であり、そこから引退するまで不動のレギュラーとして大会団体優勝、対抗戦団体優勝に幾度となく貢献した。だが、この華々しい活躍の裏には血の滲むような努力があったこともまた確かである。1年の時から上級生顔負けの矢数をかけ続け、その練習内容もストイックなまでに基本に忠実であり続けた。その結果として得られた美しい射形は安定した的中を供給し続け、普段の練習で的中率が7割を下回ったことは滅多に無かったようだ。決して妥協を許さぬその射は見る人の感動を呼んだに違いない。
試合成績:37試合で的中率 0.527(木盃獲得6個 17中1回、16中1回、14中4回)
タイトル:第70回関東個人4位、第31回全医体個人優勝
田村杯優勝4回(入賞6回)、百射会優勝1回(入賞6回)
岩崎 栄典 (80) 常に上を目指して努力し続けた体育会級の射手彼は慶應志木高校弓術部元主将として入部し、1年の時から団体戦に出場する機会を与えられた。そして、2年春からはレギュラーに定着し、2年秋から引退まで大前として28試合連続出場して的中7割5厘という驚異的な数字を残している。医学部弓道界にあって、彼の実力は群を抜いていた。練習での的中率は8割を上回り、試合で慶應医学部弓道部史上初となる20射皆中を出した経験もあり、まさに体育会級の射手であった。しかしそれでも彼は慢心することなく、謙虚に上を目指して努力を続けた。彼の弓道に対する真摯な姿勢がその高的中につながっていたことは間違いない。
試合成績:39試合で的中率 0.635
(木盃獲得17個 皆中1回、19中1回、17中2回、16中4回、15中4回、14中5回)
タイトル:第40回東医体敢闘賞、第72回関東個人4位、第41回東医体個人優勝、第74回関東個人5位、
第75回関東個人4位、第42回東医体個人5位
田村杯優勝1回(入賞9回)、百射会優勝5回(入賞10回)
御園生 与志 (83) 慶應医学部弓道部史上最も袴の似合う男中学、高校と体育会弓術部に所属していた彼の弓道への熱の入れようは並大抵のものではなかった。肌身離さず弓道教本を持ち歩き、暇さえあればそれに目を通していたし、実習で遠くに行く時や旅行に出かける時などは鞄の中に必ずかけとゴム弓を忍ばせていたほどだ。また、段位に関心のない部員が多い我が部には珍しく、審査にも積極的で参段を持っている。だが、こうした地道な努力はなかなか報われず、的中率が3割を下回ることも稀ではなかった。それでも彼は愚直なまでに努力を続け、とうとう四年の春に開花したのである。そこからは生まれ変わったかのように高的中を連発し、引退するまで大前として一年半チームを引っ張り続けた。また、彼はその特徴的な風貌とキャラクターによっても非常に目立つ存在であり、引退時には関東ではすっかり名の通った射手となっていた。
試合成績:32試合で的中率 0.538(木盃獲得7個 18中2回、16中2回、14中3回)
タイトル:第35回全医体個人10位、第80回関東個人4位、第81回関東個人優勝、第82回関東個人5位
田村杯優勝1回(入賞6回)、百射会優勝4回(入賞7回)
大澤 一郎 (91) 武の道に生きた男
予科1にして初の団体入りを果たした彼であるがその道程は決して好調続きではなかった。試合では思うように的中が伸びず、悔しさを募らせる日々であった。しかし引退後に彼の弓は本懐を遂げた。学4で主将再任後に7割を切ったのはわずか1試合のみと驚異的な的中を誇り、最後まで弓道部を牽引する存在となった。引退試合の大止めで暫定1位の学校に追いつく的中を決めたのは一重に彼の弓道に対する愛情と真摯な姿勢の表れであろう。
試合成績:47試合で的中率 0.565(木盃獲得14個 18中1回、17中1回、16中2回、15中5回、14中5回)
タイトル:第26回予科戦個人準優勝、第96回関東大会個人4位、第53回東医体個人10位、第98回関東大会個人優勝、第99回関東大会個人4位)
田村杯優勝3回(入賞11回)、百射会優勝5回(入賞7回)
昔から驚異的な練習量で知られていた彼は予科2から徐々に頭角を現わし始め、学1の頃には春関で20射18中を叩き出すほど優秀な選手になっていた。スランプに苦しんだ時期もあったものの、主将を務めた学2では東医体で個人優勝を勝ち取ったほか、秋関では落前の大澤(91)が学生最後の矢を的中させた流れを引き継いで自らも大止めを的に沈め、1中差でチームを優勝へと導いた。さらに彼は、百射会皆中という前人未到の驚くべき快挙をも達成している。迅速なテンポながらも勘所を押さえた射が特徴的で、研ぎ澄まされた体性感覚をもとに自由自在に弓を操る様はまさに天才的であった。しかし、その輝かしい成績は莫大な矢数に裏付けられていたことも忘れてはならない。彼は常に上を目指しながら、誰よりも練習を重ねる真の努力家であったのだ。
試合成績:32試合で的中率 0.514(木盃獲得6個 18中1回、16中3回、15中1回、14中1回)
タイトル:第97回関東大会個人優勝、第54回東医体個人優勝、第100回関東大会個人優勝
田村杯優勝4回(入賞2回)、百射回優勝2回(入賞3回)
中等部から弓を始め、志木高弓術部の元主将として鳴り物入りで入部した彼は、1年生時の東医体において8射皆中、個人優勝・新人賞の驚異の同時受賞を成し遂げ、医学部弓道界にその名を轟かせた。さらに2年生時には予科戦個人優勝、3年生時には関東大会個人優勝と、タイトルを総ナメしていく。特に大前での活躍が印象的で、自らが主将を務めた4年生時は落を務めたが、48試合のレギュラー登録試合のうち実に30試合に大前として出場している。
木杯獲得26個と他の追随を許さぬ圧倒的な記録を残している彼でも、2年生時には肩を故障し不調に陥る。試合的中も落ち込む中で、自らの射の抜本的改革を行い、大きな引き分けと静かな離れを特徴としていた射を、より鋭く、より無駄のない洗練された姿に進化させた。そんな彼の射はその正確さと鋭く的を貫く様から「釘打ち」のようであると称されていた。そんな彼を象徴するエピソードとして挙げられるのは間違いなく5年生時の全医体個人競射であろう。全国の強豪が集う準優勝決定遠近にて、9人のうちで自らの矢を至近させた彼は後に、「的が目の前にあるように見えた」と語った。慶應弓術の生んだ豪傑は弓道歴11年目にして自己最高の成績を残し、医学部弓道界の表舞台から静かに去っていったのであった。
試合成績:48試合で的中率0.649 (木杯獲得26個: 17中5回、16中3回、15中9回、14中8回、11中(12射)1回)
タイトル:第51回全医体個人準優勝、第56回東医体個人優勝・新人賞、第58回東医体個人7位、第60回東医体個人9位、第107回関東大会個人優勝、第109回関東大会個人準優勝、第110回関東大会個人4位、第33回予科戦個人優勝
田村杯優勝5回(入賞2回)
人見 諒 (99) 「道場なき」時代を黄金時代へ導いた全国最強の主将
阿部(98)に続き、中等部での全国出場と志木での主将経験を引っ提げ入部した彼の医学部弓道部生活は決して平坦な道のりではなかった。大学において直面した練習の制限された環境、弓具の変更といった多くの困難を抱えながらも、常にその的中を頼られる存在であった彼は、部に貢献しつつも自らの納得を得られない試合を数多く経験したのである。そうした3年間を下地に自身が主将を務めた学2において、彼の弓は遂に大成した。主将代、初の対外試合での18中を皮切りに、関東大会団体・個人3位に加え16年ぶりとなる全医体出場を達成する。そして見事、19年ぶり歴代2人目となる全医体個人優勝を成し遂げたのである。美しく爪揃えされた手の裏を備え、テンポの良さと力の充実を両立したその射は、御落から常に覇気を放つようであった。 彼を語る上で、もう一つ特筆すべきはその傑出した指導能力であろう。形式に囚われない熱心かつ的確な指導は、多くの先輩・同輩・後輩の的中を大幅に引き上げた。最高学年にして掴み取った全医体団体準優勝は、彼が蒔き、水を与え続けた種が結実した瞬間に他ならないのである。選手であると同時に指導者であり続けた、真に優れた射手であったと言えよう。
試合成績:42試合で的中率0.5542(木盃獲得7個:18中1回、16中3回、15中2回、14中1回)
タイトル:第58回東医体個人6位、第34回予科戦個人5位、第111回関東大会個人3位、第51回全医体個人優勝
田村杯優勝1回(入賞6回)
荒井 将季(100) 初志貫徹の俊英 初心者から「名射手」に成った男
大学から弓を始めた彼は予科時代から活躍を期待された選手ではなかったが、最下級生の頃より地道な努力で一歩ずつ、そして一本ずつ的中を積んできた選手であった。その積み重ねは彼を裏切ることはなく、学1最初の試合で初の先発デビューを果たすと、同試合で15中を記録、その後もレギュラーに定着し、1年間を通して安定した活躍を続けた。しかし、副将を担った学2の1年間は前年度ほどのインパクトを残すことは出来ず、現役引退後も選手としての部活動続行を決意、そして彼の弓は遂に本懐を遂げることとなる。学3での公式戦4試合すべてにフル出場、その全てで団体入賞を果たす。そして特筆すべきは彼の現役最後の試合となった関東大会での団体優勝であろう。集大成となるその場で、自らも個人入賞を成し遂げる活躍で本塾を8年ぶりの公式戦団体優勝に導いたのだ。彼が入部して以降、唯の一度も獲得することが出来なかった栄誉を部に残したその瞬間こそ、「1人の初心者」であった彼が先人たちを超えた瞬間だったのだろう。 彼を名射手へと導いたのは、間違いなく彼自身の弓道への熱意であった。新入部員、予科主任、副将、引退部員と変わっていく立場にあっても、先輩から後輩まで、誰にでも指導を乞い、自らの糧とする。そして自分が得た技術は惜しみなく全部員の指導に役立てるという一貫した姿は、今後も恒久的に全部員の模範となるべきであろう。
試合成績:25試合で的中率0.5318(木盃獲得6個:16中1回、15中4回、14中1回)
タイトル:第115回関東大会個人4位、第116回関東大会個人5位
本塾を全医体準優勝、関東大会優勝に導いた立役者である。大学から弓を始めると予科1から矢数をかけ続けて着実に的中を伸ばし、学1の春季関東大会で初の団体フル出場を果たした。その後も団体選手として試合出場を重ね、本塾団体になくてはならない存在となった。特に副将を務めた学2での活躍は目覚ましく、レギュラーとして対抗戦を含めた全11試合に出場し数々の団体戦入賞に貢献、個人でも公式戦3試合で入賞するなど好成績を収めた。充実した会が特徴的な射は御前と相性が良く、団体のいい流れを作り出す役割も担っていた。それが如実に現れたのが自身の現役最後の大会となった秋季関東大会での団体競射であろう。御前の彼が落ち着いた射で的を射抜くと勢い付いた後続の選手たちも次々と的中を決め、結果的に全員的中で競射を制し本塾は実に16大会ぶりの関東大会優勝という栄光を手にしたのである。プレッシャーがかかる場面でも安定して中て続けた彼の射は、膨大な練習により培われたものに他ならない。
試合成績:21試合で的中率0.6114(木盃獲得6個:16中1回、15中2回、14中3回)
タイトル:第115回関東大会個人優勝、第62回東医体個人5位、第116回関東大会個人3位
予科1から団体選手として多くの公式戦を入賞に導き、またその的確な指導により部員達の技術向上に努めてきた彼女は、まさに部の骨子たる存在であった。入部当初から経験者としての実力を遺憾なく発揮し、立の中では大前や落前といった大役を多く担い、団体の的中を支えてきた。しかし彼女の実力、その真価が発揮されたのはやはり幹部代となり二的を任されてからであった。大前の齋藤(101)との相性は抜群であり、小気味良く的中を重ねていく2人の姿は、後ろで待つ選手達を大いに奮わせた。中でも公式戦での活躍は目覚ましく、東医体や全医体の入賞は、彼女の活躍なしでは到底叶わなかったであろう。大舞台の上でもその射は依然として変わらず、引き分けと会は悠揚としており、丁寧かつ力強い離れは凛として美しく、放たれた矢は次々と的に吸い込まれていった。その静謐な射位での佇まいは多くの部員の憧れであり、紛う事なく我が部の功労者の姿そのものなのであった。
試合成績:32試合で的中率0.5395(木盃獲得6個:17中2回、15中1回、14中3回)
タイトル:第62回東医体個人6位、第53回全医体個人9位